甲武急行の歴史・沿革

 

画像1:1929年(昭和4年)に登場した当時の富士山麓電気鉄道モ1形

 

1:富士山麓電気鉄道の開業

現在の甲武急行の母体となっている会社にはいくつかの会社がありますが、その中心となっているのは富士山麓電気鉄道という会社です。富士山麓電気鉄道は富士馬車鉄道と都留馬車鉄道という2つの馬車鉄道が1921年(大正10年)に合併して大月―上吉田(富士吉田市)で電気運転を開始したのが始まりです。1929年(昭和4年)6月19日にはそれまでの軌道を廃止し、現在の大月線となる大月―富士吉田が開業しました。また、同年に甲府―大月の電鉄路線を建設中だった資金難の甲府電気鉄道を合併し、甲府電気鉄道の建設していた路線は1930年(昭和5年)1月21日に富士山麓電気鉄道甲府線として開業しました。甲府電気鉄道は将来は東京へ路線を延ばすことを目標としていた会社で、その目標は後で達成しています。これまでに出てきた大月―富士吉田や甲府―大月の路線以外に御殿場方面などへ行くものも計画されていたようですが、それらは昭和恐慌などがあったために建設されずに終わりました。

 

 

画像2:1936年(昭和11年)ごろの帝都電鉄モハ100形

 

2:帝都電鉄の開業

これまで説明してきた富士山麓電気鉄道は山梨県だけで運行していた会社で、東京側の路線は違う会社が建設した路線でした。東京側の路線を建設したのは帝都電鉄という会社で、小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)と同じ利光鶴松という人を中心として作られました。帝都電鉄は山手線外部に第二環状線を建設する目的の東京山手急行電鉄として1927年(昭和2年)に設立された会社ですが、第二環状線は昭和恐慌などがあって建設が出来る状態ではありませんでした。東京山手急行電鉄(後に東京郊外電気鉄道と改称)はその頃に資金難で困っていた城西電気鉄道(後に渋谷急行電気鉄道と改称、渋谷―立川・久我山―田無町の免許を得ていた会社)を合併し、比較的建設が容易だった城西電気鉄道(後の渋谷急行電気鉄道)の路線から建設することとしました。東京郊外電気鉄道(東京山手急行電鉄が社名を変更して出来た会社で渋谷急行電気鉄道を合併しています。)は帝都電鉄という社名に変更し、1933年(昭和8年)8月1日に渋谷―井の頭公園を開業し、翌年の4月1日には久我山―帝都立川(現在の西国立)・井の頭公園―田無町(田無町駅は現在のひばりヶ丘駅のことです。田無駅は以前は本田無駅と呼ばれていました。)を開業しています。

 

画像3:1938年(昭和13年)に登場した当時のモハ50系セミクロスシート車

 

3: 甲武急行電鉄の成立と本線の全通

1934年(昭和9年)まで富士山麓電気鉄道と帝都電鉄の間には関係はなかったのですが、1934年(昭和9年)10月に富士山麓電気鉄道が構想していた東京線(当初の甲府電気鉄道の計画では新宿まで独自の路線として建設することを考えていました。)を実現させるために両社の提携が決まりました。両社の提携後の1936年(昭和11年)12月18日に帝都電鉄の帝都立川―浅川(現在の高尾)が開業しました。その後の1938年(昭和13年)6月15日には浅川―大月が開業し、渋谷―甲府の本線が全通しました。浅川―大月の開業前の1938年(昭和13年)4月1日には富士山麓電気鉄道と帝都電鉄は合併し、甲武急行電鉄となり現在の甲武急行に近い形になっています。

 

画像4:戦災国電を復旧した300系300番台

 

4:第二次世界大戦とその復興

本線全通から何年か後の1940年代に入ると第二次世界大戦になり、空襲などで大きな被害を受けた車両も多くありました。終戦後も施設などが荒廃していたのですが、戦災応急復旧車や戦災国電を復旧した車両を投入することから復興が始まっていきました。終戦から5年経った1950年(昭和25年)8月24日には富士吉田―河口湖の河口湖線が開業し現在の路線が完成しました。また、河口湖線開業と同時に渋谷―甲府・河口湖で200系による料金不要の特急の運転も開始されました。1950年代前半には山梨県東部・静岡県東部・神奈川県西部の3地域だけで運行していた乗合自動車(バス)の路線を東京都に拡大するため(戦前は東京乗合自動車を系列に入れていたこともありましたが、東京乗合自動車は戦時統合で東京市の市営バスに編入され現在の都営バスの一部になっています。)に沿線のバス事業者の関東乗合自動車や立川バス、高尾自動車などを傘下に入れ甲武関東バス、甲武立川バス、甲武多摩バスとしました。

 

画像5:鉄道友の会から「ローレル賞」を与えられた3000系

 

5:高度経済成長以降の発展

高度経済成長が始まり「もはや戦後ではない」と言われた1956年(昭和31年)になると、甲武急行初の新性能電車で特急形電車となっている1000系による有料特急の運行が開始されました。その後の1960年(昭和35年)には甲武急行電鉄という社名をやめ、現在と同じ甲武急行に社名を変更しています。この時期の高度経済成長では甲武急行沿線も宅地化が進み通勤客も増加しました。また、豊かになっていく中で沿線の観光需要も増えていきました。そのような中で、2000系・3000系・5000系などの電車が投入され増大する需要に対応していったのですが、通勤客の急激な増加で朝夕の混雑は激しくなり電車の増発も困難になってきました。その対応のために1960年代中盤には駒場東大前―久我山の複々線化と地下鉄9号線(駒場東大前―綾瀬、現在の東京メトロ千代田線)への乗り入れ構想(計画段階では駒場東大前―久我山の複々線化ではなく、代々木公園―代田橋―永福町というルートでの地下鉄9号線の延伸も考えられていました。)が発表されたのですが、複々線化は立ち退き問題などがあって工事が遅れ、完成は構想の発表から50年近く経った2013年(平成25年)3月23日となりました。地下鉄乗り入れは2000年(平成12年)に完成し、甲武急行からの千代田線直通電車の本数も朝夕を中心に増えてきています。また、山梨県内に残っていた単線区間も1960年代から1980年代の間に複線化され、現在は甲武急行に単線区間はありません。

 

「架空鉄道 甲武急行」は文字通り架空のものであり、現実性を持たせるために一部に実在の企業名・自治体名なども出てきていますがそれらの企業・自治体などとは全く関係はありませんこのサイトの記載内容について実在の企業・自治体などに問い合わせないようお願いします。

 

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